絵画に描かれる交通インフラ

ひと

日本工営㈱ 顧問

水野 高信

絵を描いたり、美術論をする趣味を持ちあわせていないが、西欧の近代絵画をパソコンやタブレットの画面で流し見ながら想像を巡らすのを、暇の潰し方のひとつとしている。想像は気ままにいろいろなことに及ぶが、絵に描かれている社会インフラはそのひとつ。ダヴィンチによる『モナリザ』の左肩の背景には、氾濫の多いアルノ川上流に架かるアーチ橋が見える。都市国家フィレンツェに仕えていたダヴィンチは、下流の国家ピサを攻略するのに河川を使い、財産を破壊するあらゆる原因の筆頭は河川だが、人間の力で制御できるとも考えていた。画家がそのインフラを描き入れた心理や、時の政治経済や紛争などの背景を想像していくうちに歴史の一面が見えてくる。

19 世紀の仏絵画から運河と鉄道にまつわる絵画を拾ってみる。

パリを貫いて流れるセーヌ川には、大都市を支える物流のための岸壁があった。モネの絵には、パリ中心部にあるトウルネル鋼橋のたもとで、仏北部から運ばれた石炭を荷揚げする光景が描かれている。プロイセンに敗戦後数年にして経済を盛り返したパリの活気を表したかったのだろう。 仏では地理的条件と中央集権国家体制ゆえだろうか、運河が舟運ネットワークとして他国より発達していた。エジプト通のナポレオンはスエズ運河計画を練ったし、パナマ運河も仏の技術が活かされたほどだった。

童話『家なき子』の主人公レミがたどった経路は船で大西洋側のボルドーから、チェース描いた右の絵のような長閑なミディ運河(世界遺産)などを通って地中海に出て、さらにアルルあたりからローヌ川を遡り閘門や運河を経てパリも通過して、セーヌ川を下り、再び大西洋側の港町ルアーブルに出る。その広域な動きは国土的、土木的スケールですらある。

運河と舟運が発達した分、鉄道や産業革命は英国やプロイセンに比べると数十年の遅れがあった。そのため、1870 年の普仏戦争では、鉄道を軍事インフラとして先行整備し、製鉄業のクルップに武器製造までさせたプロイセンに敗退し、パリまで侵略されてしまう。かつて仏植民地でルイ14 世に因んで名づけられたルイジアナの広大なミシシッピー川デルタにも、幅広の運河が走り、現在はwater highway と称して長大なバージ輸送の物流幹線となっている。

とはいえ仏も19 世紀半ばから鉄道を相次いで敷設していった。ナポレオン三世の治世下では、パリ知事オスマンに命じて都市大改造が一気に進められ、国際都市化したパリと地方が鉄道で結ばれていった。農工業の進展だけでなく、富裕層は鉄道で地方の保養地に足をのばし、次第に大衆化していった。バカンス好きの仏社会のはじまりだろうか。

鉄道は絵画の潮流にも変化をもたらした。仏革命を経て古典派の肖像画の市場がすでに小さくなった時代でもあった。古典派の重鎮が支配的なアカデミーに反発した若き画家達は、鉄道に乗って郊外のアウトドアに出かけ、輝く空、水、光を風景画に描いた。モネの絵『日の出』は、鉄道が延伸され工業化したルアーブルの港湾を描き、遠くに煙突やクレーンすら遠景に置いた。この絵は単なる印象を描いただけと、印象派と蔑まされ気味に呼ばれるきっかけとなった。

しかし印象派はまたたく間に広く評価され、大衆を魅了していった。

大都市パリでうまくいかず精神異常をきたしたゴッホは、療養のため鉄道に乗ってたびたび南仏のアルルに滞在した。そこで間借りした『黄色い家』の背景には白煙をあげる蒸気機関車が描かれている。パリに戻りたかったのか、はたまた相棒と期待するゴーギャンの到着を待つ気持ちがあらわれたのだろうか。

 

マネによる『鉄道』では、パリのターミナルのひとつのサンラザール駅を下に見る橋の手すりに佇む母娘の姿に、キラキラした生活レベルの高さと、どこか気だるさを感じさせる。

鉄道が市民生活のスタイルを変えたのは言うまでもないが、絵画文化に変化をもたらしたのも確かなことだ。さて、北陸新幹線や、やがての東海道リニア新幹線は日本の絵画文化をどのように変えていくことになるのだろうか。