地震被害から学ぶ

みんなの未来構想

ジェイアール東日本コンサルタンツ(株)会長

石橋 忠良

私は、偶然にも多くの地震被害とその復旧を経験することになった。最初は、1978 年の宮城県沖地震であり、その後、阪神大震災、三陸はるか沖地震、新潟中越地震、新潟中越沖地震、東日本大震災と経験した。ここでは、阪神大震災の復旧に当たり経験したことを中心に述べる。

1995 年1 月17 日早朝にこの地震は発生した。被害箇所は阪神地区であり、JR西日本のエリアであった。私はJR東日本に属しており、異なる会社での災害であった。しかし、私が入社したのは国鉄であり、1987 年にJR各社に分かれるまでは同じ会社であった。私の最初の勤務地も大阪であった。また1975 年から4 年間は、仙台新幹線工事局という東北新幹線を建設する組織に勤務した。この組織は、北海道から九州までの既存の工事局から数十名ずつ集めての組織であった。私はここに4 年間在籍、後半2 年は仙台市と名取市の工事を担当する現場に勤務した。ここで一緒に仕事をし大阪に帰っている人が多くいた。

17 日には徐々に被害状況がわかってきた。翌日にはJR西日本から被害調査の応援の依頼があり、私を団長とする15 人で19 日の朝から大阪に向かい、当日の午後に新幹線の調査を開始した。調査団は、六甲トンネルの坑口から歩いて北に向かう班と、新大阪駅から南に向かう2 班に分けた。私は、被害の大きそうな北に向かう班に入った。多くの新幹線の高架橋の柱が折れ、スラブが落下していた。このような被害が生じるような地震が起こるとは、それまで思ってもいなかった。ただ、実験での壊れ方と同じであり、大きな地震が起こって壊れるのであれは当然の壊れ方ではあった。壊れるべき柱が壊れ、地震では壊れない梁はそのままの状態で落下していた。設計基準は1983 年より弾性応答加速度1Gの地震で崩壊しない設計法となっていたが、この新しい基準の適用は、東北新幹線の大宮以南以降の設計からで、それまでは、0.2~0.3G対応の震度法であった。過去に設計を終えた構造物には新たな基準は適用されないのである。

私は、国鉄時代、構造物設計事務所での勤務が比較的長かった。ここでは、日本全国の構造物の設計指導や変状の相談、災害時の復旧の指導、技術基準の作成など、実務の技術をすべて指導する組織であった。災害時には、現地に行って復旧方針を提案し図面を作るなどをしていた。そのような習慣から、この時も、被害状況を見ながらそれぞれの構造物ごとに復旧方法をメモにしながら歩いた。高架橋の復旧は、柱が折れたものが中心なので、梁とスラブをジャッキで持ち上げて、柱のみ造りなおそうと考えた。交通渋滞がひどい状況で資材を多く使う方法は適さない。また早期復旧には、大型重機の片押し施工よりも、すべての柱に人を配置して、一斉にジャッキアップする方がはるかに工期は早いと判断した。私が仙台の現場にいた時に宮城県沖地震に遭遇し、建設途中の構造物に多くの損傷が生じ、それを復旧した。このとき、多くのシューが壊れて桁がシューから落ちてしまった。この落ちた桁を持ち上げてシュ―の上に戻し、シュ―を補強する工事を数多く実施した。大変かと思っていたが、施工方法を工夫することで数百tもある桁を簡単にジャッキで持ち上げ、簡単に水平移動した。1日に何連もの桁を復旧した経験を思い出した。このときは、桁座からシューの上に持ち上げるので高さは10 ㎝程度であったが、今回は、荷重が小さく持ち上げる高さが5m程度と大きいことが異なっている。ジャッキの大きさは、高架橋の柱の大きさから100tの能力があれば十分と判断し、100tジャッキを集めてもらうこととした。知り合いのジャッキの専門家に問い合わせたところ、掃いて捨てるほどあるから心配無用との返事をもらった。

新幹線の設計は、工期を縮めるために「標準設計」という設計図を事前に用意していた。高架橋だと、ほぼ高さ2mごとに用意し、現地ではこれらを組み合わせて計画を行うことが出来る。高架橋だけでなく、桁や橋脚の標準設計も用意していた。スパンや高さの変更は、1ランク上のスパンや高さの違う設計図から、柱や梁の一部を除いて適用するのである。また基礎も、それぞれ直接基礎や杭基礎を用意して組み合わせるようになっていた。この標準設計を主に作っていたのが構造物設計事務所であり、そのため、構造物を見れば配筋状況や応力状況がわかるのである。私も、山陽新幹線や東北新幹線の標準設計は担当者としてかかわっていた。在来線も標準設計図集が用意してあり、一般にはこれを組み合わせての構造計画が可能となっていた。また大橋梁などの特殊橋梁も、ほとんどは構造物設計事務所が設計を担当していた。この仕組みは、設計のミスを少なくすることと、少ない設計スタッフで仕事をするための仕組みであり、またプロジェクトの工期を短くするための仕組みでもあった。東海道新幹線から山陽新幹線までは、それぞれ、着工から開業までほぼ5 年で実施してきている。

調査中に悩んだのは、落下したPC桁であった。他社の線路上に落下しており、すぐに撤去しないと他社に迷惑がかかるということで壊し始めていた。しかし、下を線路や道路で使っている直上の大きなPC桁は、造りなおすと最低半年はかかると思われた。落下したPC桁に近づき損傷状況を観察した。その結果これを再利用することと判断した。壊してしまうと造り直しとなり工期が大幅に必要となるので、JR西日本の責任者に電話をし、壊すのを止めてもらうこととした。再利用には、これらPC桁をどのように造るかを知っていることが重要である。PC桁は重いので、そのままの状況ではクレーンなどで持ち上げることが出来ない。そのため、設計時にも、クレーンで持ち上げられる重さを考慮して分割している。分割したものを並べて、それをつないで一つの橋としているのである。これらのPC桁も標準設計であり、このようなPC桁の標準設計にも私はかかわっていた。撤去は、造った時とは逆に、まずクレーンで持ち上げられる大きさに再分割し、道路や線路の上から移動することとした。そこで補修して、壊れた橋脚の柱を造りなおし、その上に再度据え付け一体化するのである。下の道路や線路が使われ始めるとその上での施工は大変となる。そこで、道路や線路の開通に支障せず橋脚の復旧に支障しない高さに仮橋脚を設け、そこに桁を戻して、そこで桁を再度一体化させると同時に橋脚の復旧も行い、最後に桁をジャッキダウンする方法をとった。

H型鋼埋め込み型なども落下していたが、これらも重くてクレーンでそのままでは持ち上がらないものもあった。これらも、ワイヤーソーで持ち上がる大きさに縦に切り、下の道路などに支障しない箇所に移動し、橋脚を復旧してから桁として再利用した。

これらの判断には、設計の知識、施工の知識、また多くの変状構造物を見てきた経験、実験での破壊状況の知識、すべてが必要であった。

壊れたものの復旧に関しても、それまでに多くの確認実験を行ってきた。降伏した鉄筋も強度は落ちないという性能、熱を与えた鉄筋の性能、壊れたRC部材の樹脂注入での修復後の性能、これらはそれまで十分わかっていた事柄である。また、柱を鋼板で巻くと耐震性能が大きくなることも、すでに国鉄時代に実験もし東海道新幹線の構造物に対して実施している。

技術的な判断として、新しい事柄はなく、すべてそれまでの知識での判断である。

技術面以外で復旧に重要だったのは、技術の判断の責任者を一人に決めることと、この責任者の下にチームをつくり責任者のサインをした復旧図を作っていくことである。責任者は、時間をかけずに方針を決める能力が必要である。阪神大震災の時、このチームを作るまでは、検討に時間がかかり現場への指示が遅れがちであった。この経験から、その後の地震対応では、JR東日本ではすべて構造技術センターで技術判断と復旧図作成を行い、所長がサインして現地に渡す仕組みとしている。

もう一点は情報公開である。正しい情報を早く出さないと、誤った情報が流布されてしまう。阪神大震災で誤った報道が多かったことから、その後の地震では、できるだけ早期に土木学会のホームページに被害と原因のコメントを出してもらうようにしてきた。これにより、誤ったコメントがマスコミに載ることもなく済んできた。

部外とのネットワークも大切である。特に、資材の入手を考慮して復旧図を作ることが大切で、復旧資材の入手の出来ることを確認しながら計画することが重要である。資材の関係者に直接お願いすることも必要であり、普段からネットワークを持っていることが大切である。

災害復旧などは経験が役立つものであり、このところ頻繁に大地震が起きているので、地震に対しては多くの経験者が育ったと思っている。各種の災害の復旧も経験が役立つのであるが、一方、防災強度が上がってきており、災害復旧の経験をする機会が少なくなってきている。事故の処置も同じであるが、安全設備が向上すると事故が減り、逆に経験する機会が少なくなる。この経験の少なさを補うことをしていくことが、これからは必要と思われる。