「 利他 行 (りたぎょう) 」と 「 飲水思源 (いんすいしげん) 」 に思う

ひと

鉄建建設 経営企画本部 広報部

緒方 英樹

 

古代、なぜ、寺を出て民衆の中に飛び込んでいった僧侶たちがいたのか。なぜ、その僧侶たちは土木工事を行ったのか。今から 1,500 年ほど昔に気持ちをタイムスリップ してみ ましょう 。
●ある小学校社会科教科書には、その背景として次のような記述があります。「聖武天皇は、仏教をますますさかんにし、人々を救うために、大仏をつくる決心をしました。国じゅうの銅を使って大仏をつくり、大きな山をくずして大仏殿を建てます」。大化の改新で国に権力が集まるようになると、寺や宮殿は華美を極めだしていました。役人は無税。寺院で国家のために祈る僧には、特別手当てが与えられていた時代です。一方、駆りだされる農民は、「租 米 ・庸 労役 ・調 布または労役 」という重い税が課せられて生息吐息の状態でした。
●「世の中を 憂しとやさしと おもへども 飛びたちかねつ 鳥にしあらねば 」。山上憶良の貧窮問答歌〔万葉集巻第五〕が当時の農民を詠んだ歌です。その時、寺の外で民が苦しんでいるのに、寺にいて経を読んでいていいのか。外に出て助けることこそ仏の道ではないのか。そう決心して、民衆の中に飛び込んだ僧が現れました。その代表的な僧侶が行基 ぎょうき です。師・道昭の死後、行基は僧の位を捨てて、自分の家を寺として民衆に仏の道を教えます。その具体的な活動として、橋や港、道路や用水路などを次々とつくり、直し、堤防工事など自ら現場の先頭に立 ちます。そんな僧侶など誰も見たことがない。とうぜん民衆は深く慕い、行基の周りに続々と集まり、地方豪族たちも支援します。そして、行基をリーダーとする土木技術者集団は、各地の民衆とともに、やがて全国約百ヶ所の工事を行っていったというわけです。でも、なぜ、土木の仕事だったのでしょうか。
●仏教では、ほかの人を助ける行いを「利他行」と言います。行基たち僧侶は、土木や建設の工事という大きな「利他行」によって人々を救い、自分は仏のような誠実な気持ちで生きたいと願っていました。行基を慕う民衆もまた、懸命に励めば仏の道に近 づけると信じたことでしょう。
古代の僧侶たちこそ、民衆のための生活を守るという土木本来のテーマを持った日本で最初の土木技術者だったと言えるのではないでしょうか。時を経て、そんな「土木の心」を日本統治時代の台湾で示したのが八田興一です。八田技師は、日照りや干ばつに苦しむ台湾南部の民衆のため、広大な荒れ地に総延長地球半周分の給・排水路を張り巡らせました。その土木事業によって農民たちの生活は飛躍的に向上しましたが、八田技師夫妻は非業の死を遂げてしまいます。ところが、地元民たちは毎年かかさず夫妻の墓前で供養してきまし た。日本敗戦後、日本人の墓や銅像は壊されたのに八田技師の墓と銅像を守ってくれている人たちはこう言います。「自分たちの為に井戸を掘ってくれた恩人に感謝することは子々孫々忘れない」。昔から伝わる「飲水思源」という考え方が根づいているのです。「利他行」と「飲水思源」、土木の心は時代と国境を超えてつながっているようです。