容積移転と広場整備

みんなの未来構想

日本コンサルタンツ㈱

代表取締役社長

田中 正典

海外鉄道プロジェクトに関わっていると、時々日本でのプロジェクトの計画経緯や基本的な考え方がどうであったか問われて、整理する必要に迫られます。新幹線駅位置の選定経緯や、駅前広場及び駅周辺の開発経緯などテーマはさまざまですが、計画の議論は意外と記録に残されていることが少なくて、先輩に尋ねたりわずかな手掛かりとなる文献探しに苦労しているのが実情です。

この欄では大所高所からの見解を述べることが期待されているとは思いますが、前述のような経験から私がJR 東日本でテーマとして取り組んでいた「容積移転」について個人の視点ですが、計画経緯の一端を記しておけば少しは参考になる時があるかと思い筆を取ることにしました。私は各種のプロジェクトの計画に携わってきましたが、計画協議がまとまるまでは公表できず、まとまるころには転勤していたり、あるいはそれを理由に記録も書いてきませんでした。その罪滅ぼしも少しはしたいと思ったのです。

「空中権」あるいは「容積移転」については、国鉄時代から主に建築分野の人たちが関心を持っていました。1970 年3 月発行の「東建工」には「鉄道用地の空中権利用について」と題してアメリカ、ヨーロッパの事例と国鉄での計画などが記されています。

1983 年秋に建設省空中権調査団がアメリカでの訪問調査と現地調査を行い空中権制度を理論と運用の両面から整理し、「空中権―その理論と運用-」建設省空中権調査研究会編著として1985 年に出版しました。私はこの本をたまたま手にし、中身はほとんど読んでいないながら空中権を鉄道のプロジェクトで実現する機会はないかと考えるようになりました。国鉄分割民営化の直前の1986 年に東日本旅客鉄道株式会社設立準備室で民営化後の鉄道会社のビジョンをまとめる仕事がありました。上司の羽賀肇さんから、これからの鉄道会社で一番大切にしなければならないのは「車両と駅だ」と言われていました。そこで駅の活性化のために大崎駅や田町駅をモデルにし、公的資金を導入して線路上空に人工地盤の駅前広場を造り、この地盤の上空の容積を隣接する線路上空でない駅舎部分に移転することで大きな駅ビルを建築するとのストーリーでポンチ絵を描きました。羽賀さんが東京都の幹部にこの話をしたところ、「東京都は受けて立てるけれど、(線路部分は聖域と思っている)国鉄がこんな話に本気で乗り出してくることがあるの?」とのコメントだったと聞きました。

1994 年春、東京工事事務所からJR 新本社ビルの接道条件の協議に建設省東京国道工事事務所にいったところ、所長から新宿駅甲州街道の南の線路上空に広場を造りたいとの提案がありました。路外駐車場施設の整備として、道路財源で広場をつくり、上部に長距離バス発着所とタクシープールを作るとの話でした。私は、その広場の建築容積を隣接する新南口駅舎敷地で使えるならJR 東日本としても面白いプロジェクトになると答えました。(当初は路外駐車場には道路財源を投入するが道路ではないので、その土地は建築敷地として比較的容易に活用できるとの理解でした) これらのアイディアをもとに「新宿駅南口地区基盤整備調査委員会」で基本方針、規模、レイアウト、甲州街道へのアクセス形態などの整理が行われました。空間の権利の処理や、立体道路制度の適用などその後の大変な協議を経て着工に至った訳ですが、いずれ完成の時にはどなたかが全貌をまとめてくれるものと期待しています。このケースでは建築的には線路上空用地と新南口駅舎用地は一体の敷地ですので、厳密には容積移転とは言えないかもしれません。

次にあったのは、JR 東日本本社の投資計画部在籍中の東京駅周辺のビル計画です。東京駅の周辺は鉄道路線が集中しているのに、交通結節機能を担う広場が慢性的に不足している状況で、国鉄時代から東京都との協議の中で広場の整備が課題となっていました。国鉄の分割民営化に伴い東京駅の国鉄用地がJR 東日本、JR 東海、清算事業団の3社に分かれることとなりましたが、東京都は広場をめぐるこれまでの協議経緯について誰が責任を持って対応するのか危惧を抱きました。そこで、建設省が仲介を務める形で四者の検討会が開催されることになったのです。具体的には、清算事業団が八重洲南口の国労会館跡地を売却するに当たり、JR 東日本の土地と合わせて共同でビル開発をすることにし、高層化に伴い設置する公共施設として八重洲南口広場を整備しました。同様に日本橋口についても、JR 東海が東海道新幹線の北端に事務所用ビルを建設することになり、周辺のJR 東日本の用地についても別に高層ビルを計画し、両者の生み出す空地で日本橋口の広場を整備することとなりました。つまり、パシフィックセンチュリービル(の権利床)やサピアタワーは、ビル開発だけではなく広場整備問題の解決のために生まれてきたプロジェクトだったのです。日本橋口広場は、東北新幹線東京乗り入れをめぐり高木国鉄総裁と鈴木都知事との間の協議で設置することになっていた計画とのことでした。この2例は容積を活用した事例でした。

丸の内駅舎の容積移転の話に入る前に、触れておかなければならないことが二つあります。一つは、国鉄が分割民営化された1987 年4月に「東京駅の周辺地域における日本国有鉄道清算事業団所有地の効用を高めるための措置に関する協定」です。これは、東京駅北部及び南部の盛土部の土地の建築容積の1/2 を清算事業団所有の旧国鉄本社用地等に移転するというもので、JR 東日本、JR 東海、清算事業団の三社で締結されました。実現はしませんでしたが、このアイディアは再建監理委員会委員の発案だったと最近になって知りました。もう一つは1987 年度に八十島義之助委員長による「東京駅周辺地区再開発調査委員会」において東京駅及び周辺の整備について検討が行われました。この中で、丸の内駅舎の取り扱いについては「現在地で形態保全を図る方針とし、土地の高度利用との調和については、駅舎の背後に駅舎の形態保全に十分配慮しながら新たな建物を建築する方法、駅舎の上空の容積率を本地区内の他の敷地に移転する方法等により実施する」と記述されています。この中で「本地区」は旧国鉄本社ビルや郵政ビルを含んでいました。つまり、道路を越えた容積の移転がここで既に論じられていたのです。これ以降、丸の内駅舎の取り扱いについては現在地での形態保存として、駅舎前半面を現状の形態で保存し、ドーム部を除く後半面部分を活用してツインタワーの高層ビルを建設する案を中心に検討が進められていました。

先ほどの四者の検討会では、旧国鉄本社跡地の売却に合わせて丸の内駅前広場を整備することで検討していましたが、清算事業団が土地の売却を急ぐとのことで丸の内広場整備の話は一旦立ち消えになりました。1997 年ごろ、三菱地所が丸の内ビルヂングの建替えに合わせて、東京駅丸の内周辺の地下歩行者ネットワークを整備したいとの話が持ち上がりました。地下歩道整備の負担は、JR 東日本としては容積移転などの特別な措置があれば協力の可能性ありとの話になりました。はじめのアイディアは、丸の内駅舎用地の容積移転を行い代価で地下歩行者ネットワーク整備費の一部を負担し、余剰の資金で丸の内駅舎の三階建て復原も行うというものでした。丸の内駅舎の復原と言う話に、関係者一同熱が入ったのを記憶しています。話の重点は地下歩行者ネットワークより丸の内駅舎の復原に移り、1999 年5月からは慶応大学日端康雄教授を委員長とする「東京駅丸の内地区検討調査」で容積移転手法の検討が行われました。(具体的には、容積適正配分型地区計画という制度を活用できないかとの議論でした)石原都知事の誕生に伴い、都の重要施策の一つとして丸の内駅舎の復原をはじめとする東京駅前空間整備が取り上げられました。その後、2001 年5 月には特例容積率適用区域制度が施行されました。(特例容積率適用区域に指定されれば、JR 東日本と個別の地権者の間の合意により区域内で容積の移転が出来るという機動性が画期的でした)伊藤滋委員長による「東京駅周辺の再整備に関する研究委員会」、都知事とJR 東日本社長の会談、丸の内駅舎の重要文化財指定などを経て、丸の内駅舎復原及び丸の内広場の整備が具体化していったのです。

八重洲口広場及び八重洲開発計画の話は、2000 年になって具体的に動き始めました。奥行が32mしかなく広場面積の不足は明らかでしたが、駅正面に建つ鉄道会館の扱いが国鉄時代からの課題でした。つまり、老朽化した鉄道会館の土地を広場として提供したらとの話になることを危惧していたのです。丸の内側の整備の方向性が見えた段階で、八重洲方についても事業性を含めて検討すべしということになりました。鉄道会館を撤去し、八重洲口広場の北側に隣接する土地所有者の三井不動産、国際観光会館、八重洲南口隣接用地の鹿島八重洲開発、新日本石油とJR 東日本が共同で南北2 棟の高層ビルを建築し、公開空地と広場を一体化し、奥行きのある広場空間を確保するという自然なストーリーで検討・協議をスタートしました。その後、鉄道会館のテナントであった大丸に関しては、北棟の商業床を二段階に分けて建築するという素晴らしいアイディアが出されました。(第一段階で大丸が北棟に移転し、次に鉄道会館の撤去を行い、その跡地に商業床の増築を行うというもので、大丸は営業を継続しながら移転できたのです) さらに、東京都との協議当初には鉄道は建築行政的には川のようなものだから、丸の内駅舎の容積を八重洲側に移転することはありえないと言われていましたが、特例容積率適用区域制度の区域設定が八重洲方も含むことになり、容積移転可能となったことも重要な事柄と思います。

出来るだけ端折って記述したつもりですが、長い話になってしまいました。こうして書いて見ると、すべての話が広場と建物の一体的整備計画と言うことになります。私はJR 東日本の東京工事事務所と投資計画部で前記のような事業のごくスタート部分を担当しました。これらのプロジェクトには多くの先輩、後輩の皆さんが参画していますし、携わった立場で経緯についての見方は異なるかもしれませんが、とりあえず私個人の視点で書かせていただきました。今回の話が何かのお役にたつことになれば望外の幸せです。