その時、仙台のJR東日本東北工事事務に居ました ~東北新幹線の復旧工事を振り返って~ (鉄建建設 藤森伸一)
東日本大震災が発生したとき私はJR東日本東北工事事務所に勤務しており、東北新幹線の復旧を担当した。かれこれ10年が経ち僭越ながら誌面を借りて当時を振り返る。
突然、地鳴りとともに大きく柱や壁が揺れだした。収まるかと思うとまた、大きく揺れた。余震が続く中、新幹線高架下の事務所に移り、対策本部を設置して安否確認を始めた。
JR本社より新幹線の復旧工事の指示を受け、被害状況の把握に取りかかった。高架橋は阪神淡路大震災以降に段階的に耐震補強を行ってきたことより被害は限定的であった。一方、架線等を支えるコンクリート電化柱にこれまでにない被害が発生、郡山から一関間約200㎞に、傾斜折損した電化柱が約300本を数えた。
効率的な施工方法について各系統の社員と施工会社も入れて議論を重ねた。他の工事事務所などから第一弾、第二弾の電気技術者の応援をもらった。福島地区、仙台地区、古川地区などに分け、さらに細分化し約30の工区に分けて順次、施工体制を整えた。資材や架線用高所作業車などの機械を可能な限り集めた。JR他社の協力会社からの応援もいただき、それぞれ工区を担当してもらった。設計責任者は高架橋の修復方法を被害の写真と元の図面を見て即座に施工会社に指示した。工事の進捗が山を越えた4月7日の夜に震度6強の余震が発生し再び電化柱が傾き、新幹線車両基地の被害が復旧前に戻ってしまった。みな意気消沈、その日は気力を回復すべく一日休工とした。
土木、電気、機械系統の技術陣の連携が深まるとともに工事が進んだ。また、施工会社も一緒になって復旧方法を考え、忍耐強く施工を進めて力を発揮していただいた。事務所に泊まったり、避難所から通ったり、自ら被災している中で、社員は復旧に向けて尽力してくれた。食料の調達など各社員が精一杯、力を発揮した。市中のガソリンスタンドは長蛇な車の列。JR本社手配のガソリンの配給では足りず、石油元売り会社と社員が粘り強い交渉を行い、優先的にガソリンを受けることが可能になった。
加圧試験や試運転を経て、4月29日に全線運転再開を迎えた。仙台駅にて始発列車を見送った。安堵感とともに突貫工事ゆえ不安感も残った。翌日の各朝刊は新幹線の運転再開の記事を一面掲載、改めて新幹線開通の期待や喜びが大きいことを感じた。
仙台市営地下鉄の復旧についても助言した。損傷した橋脚を撤去、新設することなく、注入や補強による補修により、運転再開日を1か月繰り上げることができ、仙台市からも大いに感謝を受けた。
東日本大震災後、JR東日本ではさらに耐震工事を進めてきている。コンクリート電化柱の靭性(しなやかさ)を高める改良工事なども鋭意進めてきた。本年2月13日に震度6強の余震が発生した。被害は生じたが、その程度を見るに耐震効果が発揮されたと思う。今後とも『より地震に強い新幹線』を目指して耐震工事を進めるとともに、復旧を振り返り速やかな運転再開につな
がるノウハウを引き続き蓄積してくことが重要と考える。
その時、病院に居ました(JR東日本コンサルタンツ 渡部修)
当日の午後は春の恒例、花粉症治療でした。診察を待っていたところ、その時はやってきました。足元、壁が揺れ始め、高所に置いてある大型テレビが台座から落ちそうになり、建物内では危険と思い、身一つで駐車場へ飛び出ました。建物からは逃れたものの、揺れはかなり長く続き大地震と感じました。揺れが収まった後、まずは家へ電話して無事を確認し一安心です。(しかし、愛犬はこの地震により心身に変調をきたし暫く治癒を要しました。犬でも足元が揺れるのは恐怖なんですね)
診療は中止となり、非常招集対応で新幹線高架下にある支店へ出勤です。支店では棚から書類が落下しワヤになっている部署もありましたが、総じて平穏でした。私の机上は書類が少し乱れただけであり、さすが新幹線高架橋です。しかし、この頃、大津波が押し寄せていたのですね。
20時過ぎ帰途につきましたが、交通手段は車軸が曲がり蛇行する自転車が貴重な足、贅沢は云えません。街燈や家の灯りが消え、普段とは異なった風景を呈している中、頼りない照明で進行です。大交差点では信号機が点いており、信号器具箱付近からエンジン音が聞こえ、発電機が稼働していたのです。なるほど考えていますね。しかし、この後、発電機を盗む輩が出現しています。また、津波後には、空になった宿泊施設、コンビニなどから現金、備品などが盗まれています。この非常時を盗みのチャンスと捉え行動する人の頭の中はどうなっているのでしょうか。
翌日以降、支店では震災復旧への支援要請に備えることになりました。支店では、JRが進める被災線区の調査への同行、毎夕開催のJR復旧対策会議へ出席し即応体制の準備、被災構造物の復旧相談等を行いました。
被災現地は、映像で見るより遥かに悲惨でした。常磐線新地駅付近は、変形した乗換こ線橋以外何も無く低湿地の様相を呈していました。また付近では隊列を組んで行方不明者を捜索している様子が見られましたが、とてもカメラを向けることはできませんでした。
常磐線の復旧方針が確定するのは、この1年後のことになります。
被災した新地駅
復興なった新地駅
その時、日本橋三越本店に居ました (主婦 F.D)
揺れはそんなに大きくなく、ゆっくりとした「ゆりかご」の揺れのようでした。まわりの棚から物が落ちることもありませんでしたが、大きな地震だろうなとは思いました。デパート従業員の皆さんが、「大丈夫です、耐震補強してありますので安全です」と大きな声でお客様対応していました。電車が動いていないので近くのホテルをあたってみましたがどこも満室で、しかたなくデパート内で食事し(出来たのです!)、準備して頂いた店内にある三越劇場のシートで(2百人?)一晩過ごしました。おにぎりやお茶も配布され、デパートの危機対応の良さに、ただただ感心しました。
【参考:三越日本橋本館の耐震補強・レトロフィット】
ビルは大正3年の創建で、昭和30年代までに5回の改修や増築を重ね、創建時の4倍に拡張されている。平成11年に東京都の歴史的建造物第1号に認定されたこともあり、外観を変えず、営業への影響も最小限に抑える工夫を凝らして、免振レトロフィット工事が実施された。工事は平成20年5月に完了、東日本大震災発生の約3年前というタイミングであった。
その時、池袋オフィス(21階建ビルの19階)に居ました (元JR東日本コンサルタンツ 土井博己)
いきなりガタガタと大きな揺れ、左右に数十センチも振り回されている感覚で、机の端をしっかりつかんで部屋を見渡していました(私の席は大部屋のほぼ中央で窓際)。あちらこちらの机上のパソコンや書類は、まるですっ飛んでいくように散乱、壁際の書庫もバタバタと倒れ始めている。多くの社員が机の下に避難、あちこちから大きな悲鳴もあがっている、そんな中、書庫を2~3人で抑えている社員に向かって隣のT部長が「危ない、やめて逃げろ」と大きな声で指示、私も「大丈夫、ビルは壊れないから」と大きな声で何回も叫んでいました。(T部長は仙台で宮城県沖地震の体験者)
大きな揺れが収まったのでまず人の確認を行ったところ1名だけ不明、倒れた書庫の下を覗きながら声を出して探していると、直前に15階の総務部に行ったとの情報があり一安心。(総務部にいた人たちは非常階段で駅付近の公園に避難していた)
津波による悲惨な映像が流れる中、電車は動かないが歩いての帰宅希望者が多く、方面別にチームを編成し順次出発していった。後日談だが、数時間もかかって大変だったとか。